お遍路にまつわる話
■空海が悟りを開いた地「御厨人窟(みくろど)」
空海が大学を辞めて仏道修行をした高知県の室戸岬にある「御厨人窟(みくろど)」という海岸沿いの洞窟。24番札所「最御崎寺」のほど近くにあります。パワースポットとしても有名な場所です。この地で空海は悟りを開いたという伝説があります。
空海の修行と悟りの伝説
空海は修行の場を求めていくつかの霊所へ行きます。そのうちの1つが室戸岬の御厨人窟でした。
この御厨人窟で「虚空蔵求聞持法」の修行をしている時に、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできて、悟りを開いたとされています。
この時のことは空海の著作「『三教指帰』に記されています。
この「虚空蔵求聞持法」というのは、
「一度見聞きしたものを絶対忘れない、無限の記憶力を身につけることが出来る」とされる真言密教の秘法で、虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えるという、大変に厳しいものだそうです。
悟りを開いた空海の目に飛び込んだのは「空」と「海」
御厨人窟の奥には「五所神社」と呼ばれるお社があります。
洞窟内で滴る水の音、室戸岬の波の音の素晴らしさから、環境省の「残したい“日本の音風景100選”」に選ばれています。
(残念ながら現在は落石のため、洞窟内への立ち入りが禁止されています)
御厨人窟の中から外を眺めると、先には空と海が見えます。
空海が悟りを開いた瞬間に見えた「空」と「海」。
「空海」という法名はこの風景から付けられたと言われています。
ユネスコ世界ジオパークに認定されている「室戸岬」と周辺スポット
"御厨人窟のある室戸岬には、他では見られない独特の空間が広がっています。
地震による地殻変動やマグマの痕跡、焼き芋のように焼かれてしまった砂や泥…大地の変動をそのまま感じられる場所です。
室戸岬の先端の方まで行くと、坂本龍馬とともに幕末に活躍した中岡慎太郎像があります。そして、国道から少し陸側には海を見守る室戸岬灯台があり、太平洋を見守っています。
室戸岬は、高知市からも徳島市からも離れているため、行くには少々ヨイショがいりますが、最御崎寺へ参るタイミングであれば、少し足を伸ばせばすぐ行ける場所です。"
■衛門三郎(えもんさぶろう)伝説〜四国遍路の開祖〜
四国遍路を開いたと言われる衛門三郎の伝説について。納め札の由来も衛門三郎伝説からきています。
1.衛門三郎の伝説
天長年間の頃、伊予を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。
三郎はお金持ちで権力もありましたが、強欲で情けがなく、民の人望もありませんでした。
ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門に現れ托鉢をしようとしました。三郎は下郎に命じてその僧侶を追い返しました。その後何日も僧侶は現れ都度追い返していましたが、8日目、堪忍袋の尾が切れた三郎は、僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢を割ってしまいました。以降、僧侶は現れなくなりました。
その後、三郎の家では不幸が続きました。8人の子供たちが毎年1人ずつなくなり、ついに全員がなくなってしまいました。打ちひしがれる三郎の枕元に僧侶が現れ、三郎はその時、僧侶が弘法大師であったことに気がつきました。以前の振る舞いが自らの不幸を招いたことを悟り、己の行動を深く後悔した三郎は、全てを人へ譲り渡し、お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かけます。
しかし、20回巡礼を重ねても会えず、何としても弘法大師と巡り合いたかった三郎は、それまでとは逆の順番で回ります。
しかし巡礼の途中、徳島の焼山寺(12番札所)の近くで、病に倒れてしまいました。死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れると、三郎は過去の過ちを詫びました。弘法大師が三郎に望みを聞くと「来世は河野家(愛媛の領主)に生まれ、人の役に立ちたい」という言葉を残していきを引き取りました。弘法大師は路傍の石を拾い「衛門三郎再来」と書き、その手に握らせました。
翌年、河野家に左手を握りしめた男の子が生まれました。両親がお寺へ連れて行き祈祷してもらうと、そこから「衛門三郎再来」と書かれた石が出てきました。その石はお寺(石手寺)に納められ、今も大事に祀られています。
2.順打ち・逆打ち
この伝説が、四国の寺院を巡る四国遍路の起源と言われています。弘法大師に出会うために生まれた「逆打ち」も、衛門三郎が由来です。逆打ちだと必ずどこかで弘法大師に出会えると言われ、順打ちの3倍もご利益があると言われています。それも、この伝説から来ているのかもしれません。
3.衛門三郎ゆかりの場所
伝説で出てくる石を納めているのは51番札所の石手寺です。現在も祀られています。松山市の石手にあります。また、松山市恵原町には、衛門三郎の八人の子を祀ったと言われる「八塚(やつづか、「八ツ塚」という表記も)」が今も点在しています。
■納め札について/結願の回数で納め札の種類が変わる
1.納め札の由来
衛門三郎が、空海を追いかけて四国を巡回し始めた時に、空海がいたお堂に自分の名前を書いて打ち付け、空海が戻ってきた時に自分が追いかけていることに気がついてもらえるようにしたそうです。空海へ「ここにいました」というメッセージとして残したわけです。この目印の札が、四国お遍路の納め札の始まりと言われています。
2.納め札の使い方
実際の納め札には、名前と住所、年齢、日付を書く欄があります。こちらに、自身の名前や住所、年齢(数え年)、参拝の日付を記入します。お願い事を書く場合は、裏面に書きます。簡潔に四字熟語で書くのが一般的です。
総合的にお願いを成就したい場合は、「心願成就・諸願成就・開運成就」と書くといいかと思います。
そして、本堂と大師堂にそれぞれ1枚ずつ納めます。従って、納め札の最低必要枚数は、88×2で176枚です。また、お遍路さん同士のご挨拶の際に名刺がわりに使ったり、ご接待を受けた時の返礼として渡すことがありますので、若干多めに持っておくことをお勧めします。
3.納め札の色について
納め札は、結願の回数によって色が変わります。
"白:1~4回
青:5~7回
赤:8~24回
銀:25~49回
金:50~99回
錦:100回以上
錦の札はかなりレアで、お守りにもなると言われています。"
■除夜の鐘はなぜ108回?
【仏教・神道にまつわる話】
除夜の鐘の回数はなぜ108なのか?
除夜の鐘は煩悩を消し去り、欲を持たない心で新年を過ごすためのお浄めの行事です。ちなみに「除夜」というのは大晦日のことです。この大晦日から元旦をまたぐ0時を挟む時間帯に108回、鐘を撞(つ)くというのが、割と知られています。108回は「煩悩の数」といいますが、この108という数、いくつか説があります。
・1つ目の説
眼・耳・鼻・舌・身・意の六根(感覚を生じさせることで迷いを起こさせる)のそれぞれに、好(気持ちが好い)・悪(気持ちが悪い)・平(どちらでもない)の3つをかけた18、さらにそれぞれに浄(きれい)・染(きたない)の2類をかけて36、この36を過去・現在・未来の3つの時間に配当して108とする説。
・2つ目の説
四苦八苦の四苦(4×9=36)、八苦(8×9=72)を足して108という説。
・3つ目の説
1年の月の数12と二十四節気24と七十二候72を足して108という説。
・4つ目の説
昔から日本では「たくさんの」という意味として「8」という数字を使っていたことから、108と言われるのも数として108あるというのではなく「たくさんの数」という意味だ、という説。
※4つ目の説でいえば、108回に限定する必要もなく、実際にお寺によっては200回以上撞くところもあります。
四国霊場の中でも除夜の鐘が有名なのは、第54番札所の延命寺です。
延命寺は今治タオルで有名な今治市、しまなみ街道のほど近くにあるお寺です。御本尊は不動明王像で、再三の火災から逃れているので「火伏せ不動尊」と呼ばれています。本来は大日如来が被っている宝冠を身に付けています。密教では不動明王は大日如来が変化した姿ということになっているため、それを表しているものということです。
鐘の名前は梵鐘近見二郎。
もともとこちらのお寺の鐘は「近見太郎(ちかみたろう)」という名前が付いた梵鐘でした。しかし戦国時代に略奪に遭い海に沈んだとされています。そこで作られたのが、今治市指定の文化財で、1704年作の近見二郎という梵鐘です。当時の住職が私財で鋳造したものと言われています。この梵鐘は大晦日の時のみ使用されるため、その音が聴けるのも大晦日だけです。普段は3代目となる近見三郎という梵鐘が使われています。
■お大師様を表す梵字と弥勒菩薩を表す梵字が同じである理由
お大師様の入定信仰にある『日日影向文』では「卜居於高野樹下 (居を高野の樹下に卜し)遊神於兜卒雲上 (神を兜卒の雲上に遊ばしむ)不闕日日之影向 (日々の影向を闕かさず)検知處處之遺跡 (處々の遺跡を検知す)
(意訳「大師は高野山奥の院に身を留め、兜卒天にいながら毎日欠かすことなく大師所縁の遺跡に影向し信不信を検知す」)
また、高野大師御広伝には「承和二年三月十五日、大師また曰く、『・・吾入定の間、知足天に往き、慈尊の御前に参詣し、五十六億余歳の後、慈尊下生の時、必ず随従して吾旧跡を見るべし・・吾閉眼の後、必ず兜率天に上生し、慈尊出生の時、随従して我が先蹟を問うべし・・。』・・」とあります。
この事よりお釈迦様が入滅後に現れる弥勒菩薩と同一視され弥勒菩薩を表す梵字(ユ)が使われるようになりました。